山椒大夫の幼児教育

8歳の娘:安寿と、7歳の息子:厨子王の育児や教育、受験・進学を通じて感じたことを書きます。

良い教師と出会う運と縁

尾三保子 「お母さんは勉強を教えないで」
安藤英明 「勉強したがる子が育つ 安藤学級の教え方」を読んだ。

 


どんぐり倶楽部関係の本を探していて見つけた。


見尾のほうは、もともと高校の教師をしていた女性が、学習塾を開き、小学生から高校生までを教えるようになって、思ったことを書いてある。子供を信じて待つこと、子供のやる気・能力・才能を引き出すことが書いてある。算国英理と幅広く教えている。中高生にはディスカッション中心の授業をしていたと。

安藤のほうは、小学校教師の話。絶対に他人の意見を笑わない、冷やかさないことだけをルールにし、全員が授業中に発言できるように語彙力を伸ばし発言の型を作る。「○○できるための工夫」「○○できないを解消する工夫」を繰り返していき、楽しい授業を作り出す教師の話。

どちらも、こんなに子供のことを真剣に考えてくれている教師がいるのだと感動で涙が出た。教師というのは、安月給・長時間労働で割に合わず、教師同士でいじめあったり、子供に理不尽なふるまいをするしかないぐらい追い詰められているか、偏った人間ばかりで、みんな嫌々やっているものだという思いが私にはある。私自身、多くの教師に出会ってきたが、ひどく傷つけられた記憶がいくつもある。彼らへの恨みを消化しきれずにいる。子供を学校に行かせるということは、お金を払って、子供を傷つけられに行かせることだという感じがある。

 

こういう素晴らしい教師の話を聞くと、こういう教師に出会わせてやられるかという、難しい課題を突き付けられているのだと感じ、プレッシャーになる。親にはとてもじゃないがこういう教師たちの代わりはできない。運と縁なのだと思う。

 

私は中学生のころからトリイ・ヘイデンのシリーズを愛読している。「よその子」は、まだ社会が発達障害を理解していなかった頃の、学習障害ディスレクシア)の少女を描いており、障害を理解せず甘えだと主張する古い教師との戦いが描かれている。今なら、「合理的配慮が必要」として、理解を得られるであろうが、昔はアメリカでもこんなに子供が苦しめられたのだと分かる。

「シーラという子」は、IQが高すぎ、発達の凸凹が強い子を描いていた。そのほかは発達というより、虐待や特殊な環境による苦悩を描いていたように思う。トリイは多くの場合は何の変哲もない公立小学校で働いている。トリイに出会えた親・子は幸せだ。しかし私は、どこに私のトリイがいるのかを知るすべがない。業績で塾や学校を選ぶより、よほど難しいことだ。完全に運と縁である。一つの塾、学校を選べば、それ以外の進路は捨てることになり、それ以外のところにいるトリイ・見尾・安藤に出会う機会は失われる。これを親が決めなければならないのだ。

 

こういう凄腕教師たち、子供たちをわがことのように思って大切にしている教師ですら、自分の育児では苦戦しているようだ。見尾は、一人目の子供のときではうまくいかず、三人目でやっと理想に近い姿になったという。たとえ教育関係の仕事であっても、仕事と自分の育児を両立させるのは容易なことではないと分かる。

 

トリイ・ヘイデンの虐待話は、私が子供だった頃は、なんてひどい親だとしか思わなかったが、自分が親になってみると、自分もいつこうなるか分からないという危機感というか、親に「分かるよ、そうなるよね」とシンパシーを持つようになった。